心のノート〜ハッピーを自分でつくる〜

私が私をとびきり愛して幸せになるブログ。できるなら、少しだけみんなにも愛を。

愛・自己肯定

愛されたい。これは、誰からの愛で満たされるものではなかった。

 

私が望んできたのは、たった一人の愛。彼からの愛。

 

でも、これには間違いがあるらしい。

 

限定的な愛は無いのだということ。

 

気付けば私は、彼以外の人からもらう好意や親切を拒否していたように思う。無意識にそうしていることすらあった。

 

これじゃない。それは、いつも感じていたことだし、この癖はなかなか直らない。

 

目の前の現実は自分が引き起こしているそうで、きっと欲しい愛を限定してきたから、同じように私の愛も相手は受け入れようとしなかった。

 

全てを愛すること。愛に優劣はない。言葉ではわかっているけど、特別を望んでしまう。愛を限定するから苦しいはずなのに、全てを愛することで自分が満たされるという感覚が、どうしても腑に落ちずにいる。

 

無条件に愛している、と思っていた恋には、条件がたくさん付きすぎていた。もう、あなたに何をしてほしいわけじゃないけれど、本当は手放すことなんて難しすぎる。大丈夫と言ったのは、愛してほしいからで、本当は我慢もいっぱいしてきた。

 

今まで、私なりに一人にひたすらに注いできた愛情を全てに向ける。これができたら、素晴らしいけど、私にはできない。

 

そんな自分を嫌いなのだと認識する。私は私が好きだ、なのになぜ、好いてもらえないのか。それは、心の底で自分を認めていなかったから。自分が好き。他者に求めず、本当にそう思えていたか。

 

思えば、なぜかいつも自己肯定できずにいた。自分を認める手段は他者からの言葉や励まし。いいねの数。そして何より彼からの反応により、自分が満たされていたから。自己を肯定する究極の手段が彼だった。

 

頭では、それではいけないと否定し続けた自分。他者なんて気にしない、自分は自分。言い聞かせていたけど、そんなにできた人間ではない。今だって、自分と向き合うと言って、誰かに共感してもらいたいから書いている。

 

私とは、そういう人間である。

それでいい。無償の愛も分からないし、できない。誰かに愛されることを強く望んでいる。そのくせ、与えてもらう愛を選んでいる。花を見てキレイと思う。それは、本心だけど、それだけで満たされない。誰かと、できれば好きな人と共有したい。

そういう自分だ。

 

全てを愛する、それができなければ、自分を幸せになどできない。その暗示にがんじがらめになって苦しい。愛することができない、ひどい人間。

 

それが私。それでも、いいんだよ。大丈夫だよ。強がってそう言ってみる。愛されたい、今まではうまく言えなかった。愛するより愛されたい。

 

それでもいい。そんな私でも、きっと幸せになれる。

 

けっして上手に愛を与えることはできない。それが私。それでいいんだよ。強がるな。かっこつけるな。でも、できるもん!やってきたもん!って大声で言っている私もいる。

 

 

 

私なりにいつも一生懸命やっている。それが私の一番いいところ。